「自分なくし」の理論と実践

先日知った「自分なくし」という考え方が面白かったのでまとめてみます。

まずはじめに「自分なくし」に触れたのが以下の引用

”奥泉 ライプニッツはそういうこと考えてたらしいですけどね。
いとう 「なんでこんなにいろんな『私』がいるんだ」と。
奥泉 複数の「私」がある程度ひとつに合致しないと、人間はいきていけない。「私探し」とか「自分探し」ってそういうことでしょ。
いとう むりやり合致させようとするんだよね。
奥泉 それも困ったものですが。
いとう このあいだ、みうらじゅんって友人と寺に行ったら、いいこと言うんですよ。「ひとは、『私探し』じゃなく『私なくし』のためにこそ旅に出るんだ」と。”
(『小説の聖典』p.191より)

自分探しをする人ってのはいろんな私の中のほんとうの自分をさがそうと旅にでる。そして半ば無理やり「本当の自分はこれだ」というふうに一つの自分を自分で規定してしまう。

でもこれではおかしくなってしまいます。なぜなら私というのは他人の中にもあるものだから。ここから以下の引用に続きます。

”いとう そもそも他人が規定してこその「私」ですから。
奥泉 そんなふうに、「自分が思っている自分」と「他人が思っている自分」のずれを構造化していくその運動が「私」なんですよ。”
(同p.192)

私を自分で一つに規定する(自分探しをする)という考えに沿ると、自分探しでは増えすぎた自分を一つに規定できません。自分は増えていく一方です。
引用の最後にあるように、増えた私の断片を構造化していく。つまり他人の中にいる多くの私の集積が、今の自分だと位置づけようということで、増えすぎた自分はすべて自分であって「その中のどれかが本当の自分だ」って考えるのは無理やりすぎない?ってことです。


では、「自分なくし」で自分を規定していくとはどういうことなのか、「自分なくし」を実践している江口宏志さんの『ない世界』を読んでいきます。
話は無人島で自給自足生活をすることになったという話からはじまります。

”準備の段階で、何を持って行くのか。いやむしろ何を持って行かないかということが、無人島で何をするのか、に直結することがわかってしまった。
それはつまり「無人島」という環境をいかに楽しむか、ということと同じ意味だ。テントを持って行けば便利な代わりに、自分で木を切って家をつくるという楽しみはなくなってしまう。
何かがあることで何かを失っている。”
”しかし、何かがあることで何かを失っている、ということは、裏をかえせば、
何かをなくせば何かを得ることができる。”
”ある「モノ」がないことでどのような生活が生まれてくるのか、ということを自分の体で確かめてみるということだ。当たり前のように身近にあるものや、無意識のうちに行っている行動、染み付いてしまっている考えを、一つずつ選び出して、自分から取り外してみる。どちらかというとこれは「自分なくし」だ。”
(『ない世界』p.4,5より)

自分自身と他人の中にある自分の集積が、「私」だとすると、その中のなにかをなくしていくと自分が代わりに何かを得る、そして変化する、自分が濃くなる。
そこで12の自分を自分から取り外してみるという実践についてこの本では語られています。

例えば、「行きつけのない世界」ではなんとなく(特に考えずに)普段入ってしまうお店をあえてやめてみる。すると他のお店を選択しなければいけなくなる。どうするか。そして今までの自分が新しい習慣を得て変容していく。「ケータイのない世界」では、ケータイを使わないことで江口さん自身がほんとうにケータイに求めていたことが見えてきます。
ぼく自身も、大学入学してからテレビのない生活をはじめて、自分にはテレビがそれほど重要ではないことを知りました。
自分をなくすということは、新たな自分を得るということです。

ここには無意識や無意識に近い状態で行っている自分の行動をやめてみるということに面白さがあります。そして、「自分を一度別の自分に置き換えてみる」という「自分なくし」の作業が、増えすぎた自分を一つにする(構造化する)きっかけにもつながるということかもしれません。

これからは、「自分探し」よりも「自分なくし」かな。

『小説の聖典
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『ない世界』
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