理想と現実のピントを合わせなおすことの恐怖

就職活動が始まってから、ずっと考え続けていることがある。あるいはそれは、もっとずっとずっと前から頭の片隅にひっそりと存在しこちらを眺めていたのかもしれない。ぼくはその視線を感じながらも目を合わせないようにと最新の注意を払うことで、これまでの人生をやり過ごしてきたのかもしれない。

それは、理想と現実の間の空間であり、ギャップであり、あるいはなんらかの恐怖がそこには存在した。
あらゆる選択や、またはそれに伴う行動、その後の結果にしてもこの空間に対する恐怖を感じずにはいられなかった。

ぼくらがこうでありたい自分と、こうあるべき自分と、こうある自分との差をダイレクトに感じることがある。人生の帰路に立った時だ。そして今、ぼくは就職活動に身を投じている。

普段、ひっそりと、でも確実にこちらに向けられていたその空間あるいはギャップからの視線は、この人生の帰路に立った時にこそ際立ったキバをこちらに向けるのだ。

自分の理想形がはっきりと、輪郭を伴った形で見えている人ほど(さらに言えば現実の自分にピントを合わせず、理想の自分にばかりピントを合わせてきた人ほど)、人生の帰路に立ち、現実の自分をその目で捉えなければならなくなり、そのあまりの振り幅、距離感、重力の違いに、狂ってしまうのだろう。

そして、主観してみたときの自分は充分に、かつ非常に的確に狂ってしまっている。

わかっていたはずのその振り幅に、現実的なピントを合わせるほどに就職も、進学もその姿を見せるのだろうが、確実にその落差は人を狂わし人生の色を失くしてしまうだろう。

ぼくの話をしよう。
ぼくの場合は、インターネットからぼく自身の理想の自分の、完成形に近い、かつできるだけ現実的な存在を知った。そして、SNSや書籍、公演などでその存在と近しい関係に(一方的に)なることもできた(なったつもりとも言う)。様々なことのやる気やモチベーションにもつながった。だが、そこには落とし穴も、存在した。その、理想の自分にピントを合わせればあわせるほど、目線を上に向ければ向けるほど現実の自分の存在は遠く離れたものになってしまったのだ。

現実の自分を引き上げるだけでは間に合わないほど落差をつくった人間はどうなるのだろうか。

この部分の教育(外的、内的含めて)はどのようにするべきなのか、また、今後どのようにしたらよいのだろうか。

そんな不安を抱えながら、今日も、ぼくらは理想の自分の姿を捉える。